学校法人 同志社 事業報告書 2011
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学校法人 同志社 事業報告書201127特集 新島八重の生涯は、3つの時期に分けて考えることができます。会津で生まれ、戊辰戦争で敗れるまでの第1期は「幕末のジャンヌ・ダルク」、京都で暮らした第2期は「ハンサム・ウーマン」、篤志看護婦として活躍した第3期は「日本のナイチンゲール」と象徴されていますが、これらを通して近代女性の先駆者として激動の時代を生き抜いた八重の自立した生き方が見えてきます。男勝りの娘時代、興味は鉄砲や砲術 八重は弘化2年11月3日(1845年12月1日)に、会津藩の砲術師範を務める山本家の三女として生を受けました。男勝りの八重は、13歳の時に四斗俵(約60kg)を肩まで4回も上げ下げするほどの力持ちでした。兄・覚馬の影響を受けて、射撃や砲術の知識も身に付けました。 1868年の会津・戊辰戦争では鶴ヶ城に立てこもり、新政府軍と最後まで戦い抜きます。ここで八重は、「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになった逸話を、いくつも残しています。例えば、亡き弟・三郎の服を着て、断髪し、新式の西洋銃と刀を持ち、腰に銃弾100発をぶらさげて銃撃戦に加わりました。砲術の心得を生かして大砲隊の指揮をとったり、白虎隊の少年の一人に銃の扱い方を教えたりもしました。兵糧づくりや、負傷者の看護なども行っています。京都時代、襄との出会い・結婚 戊辰戦争に敗れて会津を追われた八重は米沢を経て、京都府の顧問に就いていた兄・覚馬を頼って、1871年に上洛します。ここで、兄の影響から英語を学び、洋髪・洋装の婦人に生まれ変わります。翌年には、日本初の公立女学校「女にょ紅こう場ば」で、礼法などを教え始めます。 その頃、兄のところに出入りしていた新島襄と出会います。1874年にアメリカから帰国し、キリスト教主義の学校を京都に作るために奔走していた襄は、「黙って男性に従うだけではない女性を妻に」と考えていました。こうした考えの襄にとって、八重は理想の女性だったのでしょう。1876年に八重はプロテスタントの洗礼を受け、襄とキリスト教式の結婚式を挙げます。日本人としてのキリスト教式の結婚式は京都初であり、八重にとって襄との結婚は、保守的な風土の京都で新たな戦いの始まりだったのです。 八重は夫・襄の了解のもと、自分が正しいと思うことは断固実行しました。そんな八重を襄は大切にしました。米国の養母に宛てた手紙で襄は、「彼女は決してハンサム(美人)ではありません。生き方がハンサムなのです」と述べています。これが「ハンサム・ウーマン」の由来です。 心臓病を患っていた襄は、献身的に看病する八重の腕に抱かれながら1890年1月23日に、「グッバイ、また会わん」と言い残して亡くなります。わずか14年の夫婦生活でしたが、襄にとって八重は最良の伴侶でした。同志社創立という大事業も、八重の支えがなければ成し遂げられなかったでしょう。夫の死後、福祉活動に力を注ぐ 襄の死後、八重は日本赤十字社の正社員となり、社会福祉活動に情熱を注ぎます。1894年の日清戦争では広島の陸軍予備病院で4カ月、篤志看護婦として従軍。40名の看護婦をまとめる取締役でした。1904年の日露戦争でも、大阪の予備病院で2カ月間、篤志看護婦として従軍します。まさに、「日本のナイチンゲール」と称されるのにふさわしい活動といえます。 幕末から昭和までの激動の時代を生き抜いた八重は、急性胆のう炎で1932年6月14日に永眠します。葬儀は同志社社葬として、その年に完成したばかりの栄光館で、盛大に行われました。 八重の生涯を振り返ると、どの時期でも自分の生き方をはっきりと打ち出し、自らの力で切り開いた人生を迷わずに歩む、その凛とした生き方からは、現代の私たちも学ぶべきところが多くあります。2012年は八重没後80年にあたります。八重が生きていたら、閉塞感の漂ういまの日本でどのように行動したでしょうか。特集1新島八重の生涯激動の時代を凛々しく生きた近代女性の“先駆者”3つの時期に分かれる新島八重の生涯第1期1845年(弘化 2年)11月3日:会津藩(現・会津若松市)で生まれる。父・山本権八、母・佐久。兄は山本覚馬1865年(慶応元年)この頃、川崎尚之助と結婚(戊辰戦争敗戦後に離別)1867年(慶応 3年)大政奉還1868年(慶応 4年)1月:鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争勃発。弟・三郎が戦死8月23日:会津・鶴ヶ城で籠城戦始まる。戦死した三郎の服を着て、銃を持って入城9月22日:会津藩が降伏し開城第2期1869年(明治 2年)兄・覚馬が京都府の顧問に就任1871年(明治 4年)覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰と共に京都へ1875年(明治 8年)10月15日:新島襄と婚約。11月29日:同志社英学校を開校1876年(明治 9年)1月2日:洗礼を受ける(京都初)。1月3日:襄と京都初のクリスチャンの結婚式。襄32歳、八重30歳1877年(明治10年)同志社分校女紅場(現・同志社女子大学)開校。礼法の教員として勤務1890年(明治23年)1月23日:夫・襄が永眠。享年46歳。八重に「グッバイ、また会わん」と言い残す第3期4月26日:日本赤十字社正社員になる1895年(明治28年)日清戦争の救護活動のため広島に派遣(日本初の看護師による救護活動)1896年(明治29年)12月25日:日清戦争における功労と慰労に対して、勲七等宝冠章が贈られる1905年(明治38年)日露戦争時に、大阪で篤志看護婦として従軍1906年(明治39年)4月1日:日露戦争における功績に対して、勲六等宝冠章が贈られる1924年(大正13年)12月8日:皇后陛下の同志社女学校行啓の際に、単独謁見を許される1932年(昭和 7年)6月14日:急性胆のう炎のため、自宅で永眠。享年86歳6月17日:同志社栄光館において、同志社社葬を挙行

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