同志社墓地のご案内
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大学の設立に尽力し、終生助力を惜しまなかった。主要著書に『近世日本国民史』全100巻がある。碑銘は自筆。日山本覚馬(5N∞15S)同志社発起人の一人ο現在の含山川一棟地は、彼の所有地。「同志社」の名は山本の発案という。もと、会津藩土、京都府顧問、初代府会議長。日山山本家山本権八(ム義)・佐久(55一ム∞8)山本覚馬、八重の両親。3男、=一郎も埋葬。権八、=一郎は戊辰戦争で戦死した。口山本久栄(易司58)山本覚馬の娘。同志社女学校、神戸英和女学校(現神戸女学院)で学んだ。徳富童花の小説『黒い眼と茶色の目』に描かれた「茶色の目」事件のヒロイン。問原田助(同∞858)第7代同志社総長。在任中に大学、女学校専門学部(いずれも専門学校令による)を設立し、同志社の学術レベルの向上に貢献した。神戸教会牧師、日本組合教会会長。四森田久高人(Hg∞呂田国)同志社第1回卒業生で、最初の日本人教師の一人。同志社の財政・教育の充実のために貢献。理論的な思考に優れ、非常な読書家であった。加不破家不破唯次郎(H∞勾55)唯次郎は同志社を卒業後、福岡、前橋、京都で教育と伝道に従事。斎藤亥三雄(SSE-也由自)同志社理事長。お永田伸也(-田gISM-)同志社大学法学部卒業後、同学部助手・講師となるが、お歳の若さで天折した。幻米田和男(生没年不詳)同志社大学や京都大学の教授であった米田庄太郎の幼児。m茂木平三郎(同∞8150N)同志社英学校卒業後、上州、越後、日向、京都で伝道に従事。明日梶谷仲(生没年不詳)夫が出奔したために生活に困窮した。遠縁の黒住猪太郎(同志社卒業生)から聞いた新島裏を頼り、子供と共に京都に転住した。mm湯浅恒(常)、光吉、直代恒(-∞gEH∞甲町)は、上州安中出身。同志社女学校を中退。湯浅吉郎(半月)夫人。同志社病院で死去。光吉は、長男。直代は同志社の経営に尽力した湯浅治郎の六女。担大沢徳太郎(】∞吋由回定日)同志社に学び、後に実業家として処年間同志社理事を務めた。在任中、大学令による大学への昇格、岩倉の土地購入などに顕著な功績があった。貴族院議員。父善助も、新島の在世中から社員(理事)として、また、長男善夫も長年理事として同志社に尽くした。新島裏の墓2代目墓碑銘は勝海舟揮喜新島永眠直後は彼の遺言の通り簡素な墓標であったが、翌1891年に2代目となる石の墓標(上)が建立された。Lかし、1986年不慮の事故で倒壊し、翌年3代目の墓標が建立され、現在に至る。

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